Lynyrd Youngのブログ

競馬の思出話です

史上初の牝馬3冠 『メジロラモーヌ』

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1986年(昭和61年)の牝馬クラシックはメジロラモーヌ一色になりました。

デビューは3歳(現在の2歳)10月の東京の新馬戦でした。ダート1400メートル戦。血統の良さ(モガミ✖メジロヒリュウ)と調教タイムの良さから、圧倒的1番人気に支持されました。レースはいきなり先頭に立ち、直線に入っては他馬を突き放しなんと3.1秒(20馬身以上)の大差をつけて圧勝しました。

次走でいきなり重賞の京成杯3歳ステークス(GⅢ)に出走します。しかし、1番人気に支持されながら、スタート直後に他馬と接触し引っ掛かり、そのまま失速し4着に敗れました。さらに骨膜炎を発症し調教を休みます。

4週間後回復し、条件戦に出走し圧勝。暮れのテレビ東京賞3歳牝馬ステークス(GⅢ)に出走します。2番人気ながら2着ダイナフェアリーに3馬身半差をつけての快勝。その年の最優秀3歳牝馬に選ばれました。

明けて4歳、初戦を東京のクイーンカップ(GⅢ)に出走します。圧倒的1番人気に支持され、単枠指定されますが、騎乗騎手も首をひねるくらいの惨敗(4着)を喫しました。

次走を桜花賞トライアル4歳牝馬特別(GⅡ)に定め西下します。レースでは1番人気に支持されます。後方から進み、直線を向いた時には最後方。しかし直線で一気のごぼう抜きで優勝。胸のすくようなレースでした。

迎えた本番、桜花賞では単勝1.6倍の1番人気、単枠指定されました。

レースは中団を進み4コーナーで先頭集団に獲りつき、直線で先頭に立ち、マヤノジョウオー以下を振り切り優勝しました。まずは1冠目。桜花賞男の河内洋も初めての桜花賞制覇、メジロ牧場も初のクラシック制覇でした。

 

オークスを目指すにあたって、これまで2敗を喫している東京競馬場に対する不安を払しょくするためにオークストライアル4歳牝馬特別(GⅡ)に出走することにしました。レースでは直線でダイナアクトレスを一気に交わし先頭に立ち優勝しました。

そしていよいよオークスへと向かいます。オークスでは単勝1.4倍と桜花賞を上回りました。もちろん単枠指定です。

レースは後方からの競馬を強いられますが、徐々に進出して直線半ばで先頭に立ち、ユウミロクを押さえて優勝、3着にダイナアクトレスが入りました。2冠達成です。テスコガビー以上じゃないか、などという声も聞かれるようになりました。

 

牝馬3冠目、京都のエリザベス女王杯を目指し夏場休養し、トライアルのローズステークス(GⅡ)に出走します。レースはポットテスコレディに首差勝ちと苦しいレースでした。

そしていよいよエリザベス女王杯本番です。未だかつて3冠目を手にした馬はいません。エリザベス女王杯はその前身であるビクトリアカップが創設されたのが1970年と比較的新しいレースであるため、3冠馬が出ていないということもありましたが、ここにきてようやくそのチャンスが訪れました。10年目のテイタニヤも桜花賞オークスを連覇しこのレースに臨みましたが4着に敗れています。それ以来のチャンスです。

レースは1.3倍と圧倒的な1番人気を背負ったメジロラモーヌが第3コーナーの下り坂で仕掛け、先頭に並びます。実況の杉本清アナは「河内、これでいいのか」と叫びます。直線先頭に立ち追いすがるスーパーショット以下を振り切り優勝。ついに3冠達成です。

メジロラモーヌは3冠レースのトライアルもすべて制し、完全3冠とも言われました。重賞6連勝も記録でした。

 

このあとジャパンカップの出走も期待されましたが、陣営は当初から有馬記念で引退と決めており、最終レース有馬記念を目指します。

有馬記念ではファン投票3位、レースオッズではミホシンザンに次ぐ2位となりました。

レースは後方を進んだメジロラモーヌが直線抜けだしを図るところに、数頭が固まり進路がふさがれ、そのまま態勢を立て直せず9着と大敗しました。勝ったのはその年のダービー馬ダイナガリバーでした。

この年の年度代表馬に、久々に牝馬(トウメイ以来25年ぶり)が選ばれるかと期待されましたが、結局ダービーと有馬記念を勝ったダイナガリバーが選出されました。

 

引退後は繁殖入りしますが目立った馬は輩出できませんでした。22歳の時に老衰で死亡しました。

 

戦歴 12戦9勝 桜花賞オークスエリザベス女王杯

 


1986 桜花賞 メジロラモーヌ


1986 オークス メジロラモーヌ


1986 エリザベス女王杯 メジロラモーヌ

シンザン最後の傑作 ミホシンザン

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1985年(昭和60年)の牡馬クラシック戦線はシンザン産駒、ミホシンザンに注目が集まりました。

ミホシンザンの初戦は4歳(今でいう3歳)の1月中山1600メートル戦でした。2着に9馬身差の圧勝で、早くも素質の片鱗を見せました。続いて2戦目は2月の中山の400万下特別戦、芝の2000メートルでしたがあっさりと勝ち上がりました。

3戦目に皐月賞トライアルスプリングステークス(GⅡ)に出走します。人気は当然ながら1番人気で朝日杯3歳ステークスの勝馬スクラムダイナとの争いになりましたが、1馬身4分の3差をつけて圧勝しました。そして皐月賞へと進みます。

皐月賞も当然圧倒的な1番人気。2番人気にサクラサニーオースクラムダイナは4番人気に人気を落としていました。

レースは3コーナーで先頭に並び、そのまま押し切り、スクラムダイナに5馬身の差をつける圧勝でした。3着はサクラサニーオーでした。この強さには父シンザンの勝ち方とは違う強さを見ました。シンザンはゴール前際どく交わすという勝負強さがあったのですが、ミホシンザンは完璧にねじ伏せるという強さがありました。

しかし、レース前から脚を気にしていたミホシンザンでしたが、レース後骨折が判明し、ダービーは断念せざるを得ませんでした。3年連続で3冠馬が誕生するというもっぱらの小判でいたが、水の泡となりました。

日本ダービーミホシンザンを欠き、今一つ盛り上がりに欠けましたが、素質馬のシリウスシンボリ皐月賞トライアルの若葉ステークを勝ったものの皐月賞は断念し、ぶっつけでダービーに臨んできました。素質を買われて1番人気に押され、重馬場の中、外を回りながら2着のスダホークに3馬身差をつけて優勝しました。

ミホシンザンは夏場を休養に当て、秋のセントライト記念(GⅢ)に出走しましたが、不良馬場が響いたのか5着に敗れ、初の敗戦を喫しました。続いて西下し菊花賞トライアルの京都新聞杯(GⅡ)に出走し優勝します。

迎えた菊花賞はダービー馬のシリウスシンボリが海外遠征で不在、当然ながら1番人気に押されました。2番人気はダービー2着馬スダホークでした。

レースは第4コーナーで先頭に立ちそのままスダホークを振り切り優勝しました。3着にサクラサニーオーが入りました。2冠目の父子制覇になりました。

 

この後ミホシンザン有馬記念に臨みますが、シンボリルドルフに4馬身差をつけられての2着でした。ここら辺はシンボリルドルフの記事で触れています。

 

5歳になり3月の日経賞(GⅡ)に出走しますが、6着と惨敗。レース後再び骨折が判明、休養に入ります。秋初戦は毎日王冠(GⅡ)からスタートします。1番人気に押されるも3着に敗れます。そして天皇賞に臨みますが、サクラユタカオーに敗れ3着。

続くジャパンカップも日本馬最先着ながら3着、そして暮れの有馬記念もその年のダービー馬ダイナガリバーに敗れての3着と5歳時には未勝利に終わりました。

明けて6歳、AJCC杯(GⅡ)から始動します。1番人気で優勝。続く日経賞(GⅡ)も5馬身差の1着。勇躍春の天皇賞に向かいます。

天皇賞では当然1番人気、2番人気はニシノライデン、3番人気がスダホークでした。

人気とは裏腹にミホシンザンの状態は下降線でした。

レースは終始内ラチを走り、直線で先頭先頭集団に獲りつき、前を行くニシノライデンと内外大きく離れてゴールイン。写真判定の結果はハナ差でミホシンザンが優勝。ニシノライデンがゴール前斜行してアサヒエンペラーの進路を妨害したとして失格となりました。

2着にアサヒエンペラー、3着にスダホークとなりました。これで父子3冠制覇となりました。

このあとミホシンザンの疲労はひどく、ファン投票1位に選出された宝塚記念も断念し、休養しますが体調が回復せずそのまま引退となりました。

種牡馬としてマイシンザン他重賞ウィナーを輩出しました。

 

競争成績 16戦9勝 2着1回、3着4回 皐月賞日本ダービー天皇賞(春)

 

ちなみに父親シンザンの戦績は

19戦15勝 2着4回 すべて連対 今のGⅠ 6勝。

 

ミホシンザンシンザンの最後のそして最高の傑作でした。

 


1985 菊花賞 ミホシンザン

 


1987 天皇賞(春) ミホシンザン

 

それでは今日はこの辺で。

2年連続3冠馬 シンボリルドルフとミスターシービーの対決

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1984年(昭和59年)、中央競馬会はこの年から重賞にグレード制を導入しました。八大競争をはじめ宝塚記念ジャパンカップエリザベス女王杯、それにマイル戦の安田記念、マイルチャンピョンシップ、それと3歳馬の朝日杯3歳ステークスと阪神3歳ステークス全15レースをGⅠとしました。その下にGⅡ、GⅢと重賞を3つのクラスに分けました。

その前年の新潟でデビューした1頭の馬が初のGⅠウィナーになることになります。

その馬の名はシンボリルドルフです。パーソロンとスイートルナの子で野平祐二厩舎、主戦騎手は岡部幸雄でした。

続く2戦目も勝って、3戦目のオープンも勝ち3歳(今でいう2歳)を終えました。

明けて4歳になり、弥生賞(GⅢ)に出走します。このレースではそれまで重賞勝ちを含む4連勝中で岡部が乗っていたビゼンニシキに1番人気を譲ったもののレースは圧勝し、皐月賞に向かいます。

皐月賞ビゼンニシキとの一騎打ちの格好になりましたが、難なくかわし優勝。まずは1冠目。2頭とも単枠指定となっていました。

続くダービーも人気の上ではビゼンニシキとの一騎打ちでしたが、数字の上では単勝1.3倍の圧倒的1番人気でした。ここでも2頭が単枠指定されました。シンボリルドルフの強さに圧倒されて出走を断念する馬が続出し、ダービーとしては戦後最少頭数の21頭でした(この当時はフルゲート28頭)。レースはスズマッハが逃げ、直線でルドルフが前を行く馬たちを難なく交わし優勝、2着には20番人気のスズマッハが入りました。シンボリルドルフのレースは前年のミスターシービーのように追い込み一手ではなく、常に先頭集団にいて抜け出すという横綱相撲で見ていて安心できるレース運びです。言ってみれば優等生で、難なく勝っているというイメージです。

海外遠征の計画もありましたが、脚部に不安が出て断念し、夏場を休養し秋初戦にセンタライト記念(GⅢ)を選びレコードタイムで楽勝し、西下します。

菊花賞も当然1番人気です。当然単枠指定となりました。2番人気にニシノライデン、3番人気がフジノフウウンになりました。

レースは中団につけたシンボリルドルフが直線で先頭に立ちそのまま追い込んできたゴールドウェイを押さえて逃げ切りました。これで見事に史上初の無敗での3冠達成です。まさに強い馬です。

 

シンボリルドルフはこのあと中1週の強行軍でジャパンカップに出走します。前年の3冠馬ミスターシービーが出走してきます。シービーとルドルフの初対決です。

 

ミスターシービーは明け5歳になり春の天皇賞を目指しますが、蹄に不安が出て結局春は全休、秋を目指します。秋初戦の毎日王冠(GⅡ)を2着して天皇賞に進みます。この年から秋の天皇賞は2000メートルに変更になり、1度勝っても出走できるようになりました。圧倒的1番人気に押されたミスターシービーは例によって最後方から進み、徐々に進出し全馬をごぼう抜きしてのレコード勝ち。胸のすくような勝ち方でした。4冠目達成でした。

ここういうハラハラさせながらも、スカッとする様な勝ち方がこの馬の最大の魅力でした。シンボリルドルフとは対照的な競馬です。これは騎手の乗り方にもよるところが大きかったのではないかと思います。吉永正人は逃げるか、追い込むかと極端なレースが多かったのです。岡部は冷静に常に好位でレースを進める特徴がありました。

 

いよいよシービーとルドルフの対決です。ジャパンカップではシービーが1番人気、ルドルフは4歳馬ということもあり、ローテーションのきつさもあって4番人気でした。

2,3番人気は外国馬でした。レースは伏兵のカツラギエースが逃げそのまま逃げ切ってしまいました。カツラギエースは5歳でシービーと同期。それまで宝塚記念を含む重賞を5勝している馬で弱い馬ではありませんが、この強豪ぞろいでは伏兵の1頭にすぎませんでした。予想外の逃げにもノーマークでした。シンボリルドルフは3着、ミスターシービーはいいところなく10着に敗れました。

 

続く対決はその年の有馬記念です。1番人気はシンボリルドルフミスターシービーが2番人気、3番人気にジャパンカップを勝ったカツラギエースがなりました。3頭が史上初の3頭単枠指定になりました。

レースは前走のようにカツラギエースが逃げ、今度は逃がさないとばかりにシンボリルドルフがしっかりマークし、最後の直線で交わし優勝。ミスターシービーは追い込んできたものの前がふさがり、カツラギエースにも及ばずの3着に終わりました。シンボリルドルフも4冠目達成でした。

 

こうしてシービーとルドルフの闘いはルドルフの2勝でこの年を終えました。

翌年、ルドルフは日経賞(GⅡ)から始動し優勝。ミスターシービーはサンケイ大阪杯(GⅡ)から始動して2着。共に春の天皇賞に出走してきました。

シンボリルドルフが1番人気、ミスターシービーが2番人気。まさに一騎打ちムードでした。

レースはミスターシービーが後方から、3コーナーでまくり、菊花賞と同じように4コーナーで先頭に立ちますが、そこで力尽き直線であっさりとシンボリルドルフに抜かれ5着と沈みました。シンボリルドルフの5冠達成の瞬間です。

ミスターシービーはその後脚部不安で休養に入るも、骨膜炎を発症して復帰を断念、引退を決意しました。

 

一方、シンボリルドルフ天皇賞の後海外遠征の計画が持ち上がります。そして宝塚記念に出走を決めます。しかし、前日に脚部不安が出て、出走取消。海外遠征も断念します。

秋の天皇賞にぶっつけで臨みます。当然1番に押されレースもほぼ勝ったと思ったところに、ゴール寸前大外から伏兵のギャロップダイナに交わされ2着に敗れました。

 

その後、ルドルフはジャパンカップを1番人気で勝ち、続く有馬記念は2冠馬ミホシンザンに4馬身差の圧勝で連覇し史上初の7冠馬になりました。

 

6歳になって再び海外遠征の話が出て、実際にアメリカのサンタアニタ競馬場のGⅠレースに出走しましたが、故障を発症し6着に敗れ、帰国します。そして再び海外遠征の話がありましたが結局引退を決めました。

 

2頭の3冠馬の闘いはシンボリルドルフの完勝に終わりました。この2頭は野球でいうと、ちょうど「長嶋」と「王」のような関係で、「記憶に残る長嶋」と「記録に残る王」のようなイメージでした。ミスターシービーの破天荒でやんちゃ坊主のような競馬、シンボリルドルフ横綱相撲の優等生のような対称的な競馬。それぞれが特徴的で今でも鮮明に思い出します。

 

ミスターシービー15戦8勝、2着3回、3着1回 クラシック3冠、天皇賞(秋)

シンボリルドルフ 17戦13勝、2着1回、3着1回、取消1回、クラシック3冠

         天皇賞(春)ジャパンカップ有馬記念2回

 

ミスターシービー種牡馬として数頭の重賞ウィナー輩出。

シンボリルドルフ種牡馬としてトウカイテイオー(4冠馬)を出しています。

 

競馬はやっぱりドラマです。

 

それでは今日はこの辺で。

遂に出た!3冠馬 ミスターシービー

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1983年(昭和58年)はセントライトシンザンに次ぐ史上3頭目、戦後2頭目、19年ぶり、そして父内国産馬としては初めての3冠馬の誕生に沸きました。

ミスターシービーは前年1982年11月の東京でデビューしました。もちろん圧勝でした。ミスターシービートウショウボーイシービークインとの間の子で良血馬です。松山康久調教師のもと主戦騎手はシービークロスモンテプリンス吉永正人でした。

2戦目は中山の1600メートル。首差の辛勝でした。3戦目の800万特別戦は1番人気ながら2着と初黒星を喫しました。しかしこの時の追い込みがその後のミスターシービーの脚質を決めることになりました。

明けて4歳(今でいう3歳)になり初戦に東京の共同通信杯4歳ステークスを選びました。後方待機策から直線で追い上げ前走で敗れた相手に勝利し、重賞初制覇を飾りました。

続くレースは中山の弥生賞です。1番人気で快勝、重賞連覇します。そして1冠目の皐月賞へと向かいます。

皐月賞は当然1番人気です。単枠にも指定されました。2番人気はウズマサリュウ、3番人気がブルーダーバンでした。当日は雨の不良馬場になりました。追い込みのミスターシービーにとっては不利な馬場となりました。

レースはスタート後後方に位置し、向う正面から徐々に上がっていき、4コーナーで先頭に獲りつき、直線で先頭に立ちそのまま押し切りました。まずは1冠目制覇です。

 

そのままぶっつけでダービーへと向かいます。ダービでは当然ながら単勝1.9倍の圧倒的1番人気で単枠指定です。。2番人気には皐月賞で2着になったメジロモンスニー、3番人気は皐月賞で逃げ粘ったカツラギエースになりました。

レースは出遅れで最後方、場内騒然。徐々に進んで4コナーで先頭から6~7番手までとりつきます。直線は外に持ち出し追い込みにかかります。他馬と接触しながら、ものともせずに一気に抜け出してきます。その脚は他の馬が止まって見えるくらいです。追い込んできたメジロモンスニーを抑え込んでの優勝でした。3着にビンゴカンタが入りました。これで2冠達成です。

 

秋の3冠目に向けて夏場は休養に当てました。しかし、その間足を痛め、さらに風邪をひくなど体調が思わしくなく、予定していた秋初戦のセントライト記念は断念、西下して菊花賞トライアル京都新聞杯に出走することにしました。1番人気にはなるものの、見るからに元気がなく、体重も12キロ増と太目残りでした。ここも単枠に指定されました。レースはカツラギエースから1秒以上離されての4着。初めて連対を外しました。盛山アナウンサーの「ミスターシービー、ものすごい競馬をしました」が印象的でした。

菊花賞では1番人気には押されたものの、父のトウショウボーイも距離の壁に泣いた菊花賞の3000メートルには不安が残り、ましてや前走の敗北も気になるところでした。

レースはハイペースで進み、ミスターシービーは最後方に待機します。2集目の3コーナーの上りから追い上げ始め3~4コーナーの下り坂で一気に先頭に追い付き、直線に向かいます。場内は騒然、どよめきます。しかしミスターシービーはものともせず直線を逃切り優勝しました。関西テレビ杉本清アナウンサーは菊花賞の度に「3~4コーナーの坂はゆっくり下らなければいけません」といっていたのを見事に覆され「驚いた、ものすごい競馬をしました」と驚嘆していました。「見てくれこれが3冠の脚だ」と共に名セリフです。2着にビンゴカンタ、3着にシンブラウンが入りました。

 

こうしてミスターシービーは19年ぶりの3冠を達成し、ジャパンカップ有馬記念を回避して4歳を終えました。このローテーションには批判もありました。3冠馬ジャパンカップ、ましてや有馬記念に出ないというニュースには当時がっかりした記憶があります。

そしてミスターシービーシンザンが果たした5冠制覇を目指し5歳を迎えようとしています。5冠というのはクラシック3冠に天皇賞有馬記念制覇を加えたものです。

しかし、ミスターシービーの苦難はここから始まります。

それはこの翌年に再び現れる3冠馬についての記事で書こうと思います。

 


1983 日本ダービー ミスターシービー


1983 菊花賞 ミスターシービー

 

それでは今日はこの辺で。

 

不思議な2冠馬 カツトップエースと悲運な名馬 サンエイソロン

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1981年の牡馬3冠レースは不思議な結果に終わりました。1冠目の皐月賞はトライアルのスプリングステークスを1番人気で勝ったサンエイソロンが有力視されていましたが、レース前日に繋靱帯炎を発症し出走取り消しになり、大混戦ムードになりました。

案の定、なんと16番人気のカツトップエースが優勝、2着にも11番人気のロングミラーが入り、単勝6920円、枠連6650円の大波乱になりました。

カツトップエースイエローゴッドの子で、短距離はいいがクラシックまではと、期待はされていませんでした。皐月賞大崎昭一に乗り替わり、陣営は密かに期待していたのかもしれません。

ダービートライアルのNHK杯皐月賞を取消したサンエイソロンが1番人気に応え優勝、2着に皐月賞馬ながら5番人気だったカツトップエースが入りました。

日本ダービーは当然サンエイソロンが1番人気、皐月賞2着のロングミラーが2番人気、カツトップエースは3番人気でした。

レースはカツトップエースが終始2番手につけて直線へ。直線で先頭に立つとそのまま逃げ込みを図ります。外からサンエイソロンが急襲して並びそのままゴールイン。写真判定の結果、ハナ差でカツトップエースが優勝しました。これで春の2冠馬に輝きました。大崎昭一はこの時点で史上初のダービー2勝騎手になりました。

カツトップエースはその後夏を休養して秋に備えました。しかし屈腱炎を発症し秋を断念、治療に専念するも回復せず引退となりました。何ともあっけない2冠馬の退場でした。

となると、秋の菊花賞は今度こそサンエイソロンと下馬評は高いものでした。秋初戦のセントライト記念メジロティターンの2着に負けましたがトライアルの京都新聞杯はレコード勝ち、堂々の1番人気で菊花賞に臨みました。

3000メートルの距離に若干の不安はありましたが、能力の高さでカバーしてくれるだろうとの見方から1番人気に押されました。

しかし、レースは伏兵のミナガワマンナに0.7秒差、4馬身をつけられての2着に終わりました。

明けて5歳になったサンエイソロンは初戦の中山記念こそ5着に敗れましたが、続くサンケイ大阪杯は優勝、今度こそ八大レース制覇をと春の天皇賞を目指しますが繋靱帯炎が再発、断念。それでも6月の高松宮杯を2着、秋の毎日王冠を2着して、秋の天皇賞を目指します。1番人気に押されましたが見せ場もなくメジロティターンの12着に大敗しました。足の状態からもはやこれまでと引退を決めました。

追い込み一手の脚質からあと一歩の取りこぼしが多く、悲運の名馬とあだ名されました。

強力な末脚は魅力的でしたが、最後まで脚部不安に悩まされました。ここでもカツトップエースサンエイソロン、両馬の運命の違いが浮き彫りにされました。

 

カツトップエース 戦歴 11戦4勝、2着2回、3着1回 皐月賞日本ダービー

サンエイソロン  戦歴 21戦6勝、2着8回、3着2回 取消1回

 

それでは今日はこの辺で。

 

無冠の帝王 モンテプリンス

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1980年、昭和55年の牡馬クラシック戦線は大混戦となりました。不良馬場の皐月賞は道悪巧者の増沢ハワイアンイメージが制しました。2着に3番人気だったオペックホースが入り、モンテプリンスは4着でした。

モンテプリンスは距離が延びればこの馬だと騒がれた馬でした。シーホーク産駒の長距離血統のため期待されました。勝ちみが遅く3戦目での初勝利後も400万特別を勝っただけでクラシック路線に臨みました。しかし道悪がからっぺたで、クラシック路線の弥生賞皐月賞トライアルのスプリングステークス皐月賞も道悪に泣きました。

しかし、良馬場で行われたダービートライアルのNHK杯は2着のレッドジャガーに7馬身の差をつける圧勝でした。日本ダービーは堂々の1番人気で臨みました。

レースは最後の直線で先頭に立ったモンテプリンスがそのままゴールするかと思われましたが、強襲したオペックホースに首差交わされ無念の2着に終わりました。

秋初戦はセントライト記念を選び、函館記念を勝ったサーペンプリンスに続いての2番人気で出走も見事に優勝。続く菊花賞トライアル、京都新聞杯はまたしても不良馬場に泣かされ5着でした。それでも本番の菊花賞は1番人気に押されました。2番人気はキタノカチドキの子供タカノカチドキでした。

レースは直線にで5番人気のノースガストの強襲に遭い、再び首差の2着でした。モンテプリンスの4歳(今の3歳)は無冠に終わりました。「無冠の帝王」の呼び名はこの頃から始まりました。

明けて5歳になり、4月のオープンを2着したものの血行障害が見つかり、秋まで休養することになりました。

秋初戦の毎日王冠は3番人気ながら10着と大敗して、秋の天皇賞に出走します。5番人気と人気を落としての出走となりました。直線でホウヨウボーイとのマッチレースになり、またしてもハナ差の2着に終わりました。その後、この年から始まったジャパンカップを2番人気に押されながらも外国馬の7着、続く有馬記念アンバーシャダイホウヨウボーイに続く3着でした。この年も無冠は続きます。

明けて6歳、東京新聞杯を勝ち、続く中山記念は2着ながらも勇躍春の天皇賞に向かいます。天皇賞は1番人気に押されます。2番人気は前年の菊花賞ミナガワマンナ、3番人気に有馬記念を勝ったアンバーシャダイと続きます。4番人気には地方からやってきたゴールドスペンサーです。

レースではこれまでとは打って変わって、後方待機策をとりました。直線に入って一気に他馬を抜き去り、アンバーシャダイ以下を押さえて優勝しました。「無冠の帝王」返上の瞬間でした。

この後、春のグランプリ、宝塚記念も圧勝します。しかしレース後繋靭帯炎を発症し休養を余儀なくされました。年内休養の予定でしたが、有馬記念出走をとのファンの願いに応えて出走も11着と惨敗、引退を決めました。

通算成績24戦7勝、2着6回、3着2回 天皇賞(春)宝塚記念

種牡馬になり、2頭の重賞ウィナーを輩出しました。

 

同期のダービー馬オペックホースはダービーを勝った後、32連敗という「史上最弱のダービ馬」という汚名を着せられました。

 

改めて馬の人生の厳しさを思い知らされます。


1980年 オペックホース 日本ダービー.mp4

 

それでは今日はこの辺で。

遅れてやってきた大物 ホウヨウボーイ

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以前書いたサクラショウリバンブトンコートと同期でしたが、クラシック戦線には全く出走が叶わなかった馬、それがホウヨウボーイです。

ホウヨウボーイは3歳(今の2歳)の暮れの中山でデビュー、1番人気で6馬身の差をつけて圧勝します。ところがレース後右前脚の骨折が判明、春のクラシックは絶望となりました。秋を目指しますが、再び今度は左前脚を骨折してしまいます。これで年内の出走は絶望となりました。

ホウヨウボーイがようやく復帰できたのは5歳の夏の函館でした。最下級の400万下を勝ちますが、続く400万下特別は2着、次の特別戦を勝ち上がり、800万下特別を2連勝して5歳を終わります。これまで6戦5勝、2着1回とすべて連対を果たしています。しかもすべて1番人気でした。

明けて6歳になって、1200万下の特別戦を2着、続く同条件の特別戦を勝ち、初の重賞、日経賞に臨み、見事優勝します。重賞初挑戦での圧勝でした。

夏に降級し1200万条件戦を勝ち上がると、いよいよ天皇賞への緒戦を目指します。秋初戦のオープン戦を2着して、天皇賞への出走を決めます。天皇賞では前年のダービー馬カツラノハイセイコが1番人気、ホウヨウボーイは堂々の2番人気に押されます。レースの方はカツラノハイセイコホウヨウボーイが互いにけん制し合う中、牝馬プリティキャストがまんまと逃切り、2着にもメジロファントムが入り、カツラノハイセイコは6着、ホウヨウボーイは7着と初めて連対を外すという辛酸をなめました。

その後ホウヨウボーイカツラノハイセイコと共に有馬記念に駒を進めます。天皇賞での惨敗が響き、カツラノハイセイコは3番人気、ホウヨウボーイは4番人気になりました。1番人気には天皇賞で2着に来たメジロファントム、2番人気に前年の有馬記念の勝ち馬カネミノブがなりました。

レースの方はスピード馬のサクラシンゲキが逃げ、天皇賞馬のプリティキャストは逃げられず2番手、ホウヨウボーイは終始3番手を進みます。カツラノハイセイコは後方待機。3~4コーナーで馬郡が一団になると、内からホウヨウボーイが抜けだし、外からジカツラノハイセイコが襲い掛かります。結局ホウヨウボーイカツラノハイセイコをきわどくハナ差押さえて優勝しました。3着にはカネミノブでした。

この優勝が効いたのかホウヨウボーイはこの年の年度代表馬を6歳で獲得しました。

明けて7歳、ホウヨウボーイは初戦のAJCC杯を快勝、続く中山記念は2着になりましたが、春の天皇賞を目指します。しかし脚部不安を発症し、秋まで休養を強いられました。

秋初戦のオールカマーは1番人気で5着と敗れました。秋2戦目が天皇賞となりました。1番人気は春の天皇賞カツラノハイセイコの2着して。宝塚記念は逆にカツラノハイセイコを下したカツアールでした。ホウヨウボーイは2番人気でした。3番人気にメジロファントム。前年ダービ―2着の無冠の帝王モンテプリンスは5番人気でした。

レースはモンテプリンスが果敢に先頭に立ち、ホウヨウボーイはしゅうし2,3番手を進みます。向う正面で一旦先頭を譲る形になったモンテプリンスですが、直線に入って再び先頭に立ちます。後続馬が一気に押し寄せます。そして内を通ってホウヨウボーイが忍び寄って、モンテプリンスとの激しいデッドヒートの末、ハナ差交わしてホウヨウボーイが優勝しました。レコード勝ちでした。

この年大回目のジャパンカップが開催されました。ホウヨウボーイモンテプリンスも出走しますが、外国馬に敗れ去りました。ホウヨウボーイはこの時ゲートに顔をぶつけ歯を3本折っていました。

そして暮れの有馬記念を引退レースとして選び、出走しました。結果は同厩馬のアンバーシャダイの2着となりましたが、2年連続の年度代表馬に選ばれました。

引退後、8歳時に急死し、わずか48頭の種付けで終わってしまいました。

遅れてやってきたホウヨウボーイでいたが、退場後の生命はあまりにも早いものでした。

 

通算成績 19戦11勝、2着5回 有馬記念天皇賞(秋)


1980年有馬記念 - ホウヨウボーイ

 


【競馬】天皇賞・秋 (昭和56年)

 

それでは今日はこの辺で。